真夜中がきれいなのは、ひかりが彼らを見守るからだ
わたしね、もし自分の好きな夢を見られるとしたら、真夜中に星をつかまえる夢を見たいの。
星をつかまえたいの?
そう。
どんなふうに?
まず、真夜中になったら家をそうっと抜けるの。わたしの家で飼っているカニンヘンダックス、見たことあるわよね? あの犬はすごく敏感で、ドアの開け閉めだけで吠えるの。だから気づかれないように、そうっと動かなきゃいけない。ママにばれたら怒られちゃうから。
そうだね。君のお母さんは心配性だもの。
ええ。もう13歳だっていうのに過保護がすぎるわ。
家を抜けだしたら、道路の真んなかに立つの。はだしでね。
はだしで?
そう。こういう儀式は‘‘はだし’’って、むかしから決まっているのよ。長めの白いワンピースを着ていたら、なお良いわ。
今日みたいなワンピースってことだね。
うふふ、きれいでしょう?
それでね、道路の真んなかでじっとしていると、足や手の先がすこしずつ冷たくなっていくの。とたんにふわっ、とからだが宙に浮いて、わたしは夜の闇をゆっくりと掻きわけていく。あるくこともできるのよ。
灯りのつく家が、わたしの爪とおなじ大きさから、ママが持っているリングの宝石くらいの大きさになって……それを数えているあいだに、自分の家がどこにあるかもわからなくなってしまうの。
それは……不安にならないのかい?
もちろん、不安よ。不安でたまらないわ。星をつかまえる前に、もしかしたらこわい人に声をかけられるかもしれないし、暗くてよく見えないせいで道を間違ってしまうかもしれない。ちゃんと家に帰れるかどうかもわからない。
でもね、星に必ずたどり着いてつかまえられるし、家に帰ってこれる、とわたしはわたしを信じているの。そう信じていれば、声をかけられても迷ったりはしないし、道を間違えてもまた別の道を探すわ。
家の場所がわからなくて帰れなくなっても……たとえば東京タワーやスカイツリーのように、わかりやすく大きくて、光っているものの近くに降りたらいいんじゃないかしら。そのあとは歩くなり……ああ、はだしの設定だったわね。とにかく、困ったらそのときに考えたらいいのよ。
ははっ、君は相変わらず大胆だね。
人生なんて、案外どうにでもなるのよ。……話が逸れてしまったわね。
夜の闇をひたすらに、ただひたすらにあるくと、ひんやりとした風に頬や足の裏を撫でられて、わたしはひとりじゃない、とうれしくなるの。それに気がついたワンピースもゆらゆらと踊りはじめて、風やワンピースと一緒にスキップをしたり、くるくると回ったりしてね。
知ってる? 宇宙はね、さわやかなにおいがするのよ。透明な空気たちはわたしの内側に入って、すみずみまで満たしていくの。
近くで見る星はどんな形をしているんだろう。どんな色をして、どれくらいの重さなんだろう。熱いのかな? 冷たいのかな? それとも、ママの手のひらくらいの温度かしら? なんて考えて、どんどんわくわくしてくるわ。
その話を聞いている僕もわくわくしてくるよ。星は、僕の想像するものと同じかなあ。
さあ、どうかしら?
夢の中の星にふれてみると、びっくりするくらい冷たいの。星の表面はガラスのようなもので、中にひかる液体が入っていて……星がきらきら輝いて見えるのは、ほんとうはその液体が常にゆらゆらと揺れているからなのよ。ひかりながら、揺れているの。
わあ……それは素敵だね。色は? 重さは?
色は、黄色に近い白。大きさは、わたしがぎゅっと握れるくらい。あ、握りしめるとね、指のあいだからひかりが漏れるの。ふふ、それがとってもきれいで、わたしはiPhoneを持ってこなかったことを後悔するはずよ。Instagramにあげたら、誰もが羨ましがるでしょうね。あるいは……ほんものの星だと信じないかしら?
夢のなかだからね。きっとみんなは君をうらやましがるはずだよ。
星は家に持ち帰れるのかい?
いいえ。シャカシャカと振ってみたり、持ち帰ろうとしてみたりするのだけれど、手を離すと元々いた場所に戻ってしまうの。そーっと、でも確かな足取りで。 「あなたのいるべき場所はそこなのね。そこにいると、自分で決めたのね」と声をかけると、頷くように揺れて、わたしの顔を照らすの。
そんなふうにしてしばらく星たちと戯れたあとは、来るときと同じようにして帰るわ。
星たちにも意思があるのかもしれないなあ。
……わたしね、ずっと考えていたの。‘‘真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろう’’って。ずっとずっと昔からよ。
夜になると、「さあ寝ましょう」と言って、パパとママが絵本を持ってくるでしょう? わたしが眠るまではずっと隣にいるの。だから、いつも寝たふりをして……パパとママが部屋を出ると、急いでカーテンを開けたわ。夜が更けるまで、窓の近くで空を見つめることもあった。真夜中がうつくしすぎたせいよ。
今こうして、星をつかまえる夢について想像していたらわかった気がするの。真夜中がきれいだと感じる理由は、ひかりたちが見守ってくれていると確信できるからなのよ。
ひかりたちが見守っていると確信できるから、真夜中はきれいなの?
わたしはそう思うわ。
たとえば、大切なひとたちが悲しんでいても、いつだって彼らのそばにいられるわけではないわよね。けれど、代わりにひかりたちが、彼らの濡れた頬やまつげをやさしく照らして、包み込んでくれるはずなの。
雲で隠れてこちらからは見えなくても、遠くでひかる液体をゆらゆらさせていることには変わりないわ。ほら、現に、ああして雲が晴れると……星のひかりが顔を出すでしょう? そんなふうに見守ってくれるから、大切なひとたちはすこしでも安心して眠れるし、わたしたちもそう信じられる。だから、真夜中はこんなにもきれいなんじゃないかしら。
わたしは、今日も星のひかりに願いを託すわ。どうか、大切な人たちを守ってくださいってね。
「平成」の青い春はもう二度とやってこない。
まるで初夏のような、肌をジリジリと焼く陽射しを感じながら、「平成最後の5月」の言葉に小さな衝撃をうけた先月末。
来年の4月まで何でもかんでも「平成最後の〜」がつくのだろうと予想できてしまうことに苦笑いが漏れてしまいそうになるけど、「平成生まれの平成育ち」、平成が染み付いる世代からしてみると付けたくなる気持ちはわからないでもない。
来週には関東も梅雨入りし、梅雨が明ければ「平成」最後の夏がやってくる。
夏といえば、「青春」の二文字がぴったり当てはまる季節だと思う。特に学生時代の夏の思い出は、良くも悪くも強烈な後味を残して過ぎ去っていく。時たま、頭を抱えたくなるようなことを思い出してしまったり。
そんなこんなで夏といえばこれ!というイベントの中の思い出たちを振り返って、精神的な絶望に自分を追い込んでいきたいと思うので、よければお付き合いください。
①夏祭りマジック
高校1年生の夏、やっと高校生活に慣れて、はじめての長期休みに仲のいいクラスの男子の友達に紹介されたのが、初彼氏のYくん(としておきます)。友人とともに、その男子の地元へドキドキしながら電車で向かったのが懐かしい…。
ちょうどその日は夏祭りで、はじめましてだったのにも関わらず、知らないうちになぜか2人でお祭りをめぐり、ベビーカステラを半分こ…なんて、そんな淡い思い出。
道端の縁石に座りながらサイダーを片手に1時間くらい話し込んで、夏の夜の暑さとお祭りの熱気にのまれたあの夜は、初めて実感した確かな「青春」の1ページ。
②初恋の人と偶然の再会、一緒に花火
神様のばか!と思わず叫んでしまいそうな、会いたかったような会いたくなかったような初恋くんとの再会。中学校から別々になって、連絡を取り合うこともなかったのに、ばったりと道で遭遇して一瞬世界が止まったような感覚に陥った。たぶんフリーズしていたと思う。久しぶりとのんきに声をかけてくる彼に心臓バクバク。呼吸困難寸前。なんの話をしていたのか、会話の内容は思い出せないけれど、なぜかその日の夜に花火をすることに。
夜の20時過ぎに河川敷近くの農道に集合して、2人だけの手持ち花火大会。色鮮やかに変化する花火の光を見てコロコロ変わる彼の表情に目が釘付けで、花火の綺麗さなんてどうでもよかった。
このよくわからない一夜の出来事は、強烈に思い出として焼き付いてるし、やっぱり初恋の人はいつまで経っても特別な存在らしい。
③誕生日の海
大学1年の夏、8月生まれだったことを憶えていてくれた男友達の運転で急遽、海へ行くことに。(運転はとにかく荒かったけど)無事に海へ到着!と思った矢先に大雨…。自他ともに認める雨女を存分に発揮し、車の窓越しには大しけの海。当然のことながら大爆笑でした。
車を降りて、道の駅のような場所でバカみたいに暑いのにラーメンをすすり、雲がきれたほんの少しの間で海辺を散歩。海は大荒れでしたが。砂まみれになった足に、べたつく髪の毛、雨で湿った洋服、何もかもが最高で楽しかったなぁ。
それに、運転する横顔の雰囲気がいつもと違うから、どこかドキッとしたのはここだけの秘密にしておきます。
そんな10代の夏のあわい記憶たちをふりかえってみましたが、みなさんにもきっと夏の思い出がたくさんあることでしょう。10代のあの無敵さはどこから湧いてくるのか、今となっては自分のことなのにさっぱりわかりません。
夏は暑くてジメジメして、あのなんとも言えない肌にまとわりつく空気が嫌いでたまらないけれど、大切な思い出を残してくれるあの季節が恋しくてたまらない、そんな矛盾した思いがいったり来たり。
そんな夏、「平成」最後の夏がもうすぐ、そこまでやってきているようなので、みなさんの今年の夏が最高に楽しくなるように願っています。
、
最低で最高な、平成最後の夏を。
平成最後の夏がやってくる。
わたしが高校生だったころ、もう3年も前になるが、あの頃はまさか「平成が終わる」だなんて思いもしなかった。
‘‘JK’’というウルトラハイパー最強な肩書きがいつの日か無くなるなんてウソだと信じ、四方八方を緑に囲まれた田舎にある、生徒全員を同じ方向へ向かせようとする狭い「学校」という名の地獄に自ら入り、「このまま一生つまらない人生を送るのだ」と本気で思っていた。
今の学生たちがどうなのかはわからないが、わたしがまだ高校生だったころは、‘‘高校入学と同時に人生サイコー! と突然はっちゃける自称「俺ら最強」組’’と、‘‘狭い教室で「そんなんじゃ社会に出られない」とか「大学に行けない」と大声で捲し立て、生まれ育った環境がまったく違う人間をすべて同じ方向へ向かせようとする教師なんてクソくらえだ、とにかく学校嫌い組’’の2つに分かれていたように思う。
見てのとおり、わたしは完全に後者の人間だった。
学生生活なんて、たとえ神に頼まれたとしても戻りたくない。けれど、夏の気配をこの肌で感じるたびに思い出すのは、高校生のころの記憶だ。
そこで今回は、「ああ、そういえばもう高校生じゃないから、あれはできないのか」と夏がくるたびに蘇る出来事を振り返ってみる。
あれをしておけばよかった、もっとJKを満喫するべきだった、なんて後悔のようなものは一切ないが、このブログを読んでいる人になかに高校生がいるのであれば、少しは楽しんでいただけるだろう。
高校生ではない人は思い出して感傷に浸るなり、煮るなり食うなりしてください。
①溶けるほど暑い夏の日の放課後、
ダラダラと自転車を漕いで「もう無理~帰れない~」と喚く
何度もやった。というか、夏なんて毎日こればかり言ってた。
地元が盆地なので、夏はとにかく暑い。カラッと乾いた暑さならまだ耐えられるが、梅雨が明けたというのにいつまでもジメジメジメジメしているのだ。端的に言って地獄。学校も地獄、通学中も地獄、朝の7時から夕方の18時まで地獄。ウケる。
暑さによる発汗で体力を奪われ、歩行者と同じくらいのスピードで漕いでいたこともある。
上京してから自転車に乗らなくなったし、あれほど汗を流しながら死にそうな顔で漕ぐことなど、田舎に移住しない限りはないだろう。
若さってすごい。今のわたしだったら即迎えに来てもらうかタクシーに乗る。だって汗かきたくないもん。
②授業中、裾をひらひらさせてスカートのなかへ風を送り込む
これ、やったことのない女子はいないと思う。いくらスカートを短くしていようとも、暑いものは暑い。(夏でも長いズボンを履いている男子はもっと暑いだろうけれど)
中学ではスカートのなかに体操着をはく規則があったし、スカート丈も膝から下と厳しく指導されていたので、下着が見えるなんて心配はゼロ。いや、むしろマイナスと言ってもいいほど。どう頑張ったって見えないのだ。見たいわけじゃないけれど……。
高校に入ってからは正真正銘、スカートを履いていた(体操着も履いているときは、風の通りが悪いというか、スカートを履いている気がしなかった)。
裾を指先で持ってひらひらと動かし、なかに新鮮な生温い風を送り込んで、ああこれがJKか、なんてぼんやり思っていた。
③汗で濡れたブラウスを乾かす(それ以前に、濡れないように必死になる)
制服にはさまざまな種類がある。ブレザー、セーラー、その他にはジャンパースカートとか。
わたしの通っていた高校はブレザーで、夏服はブラウス+スカートだったのだが、ここで女子たちの頭を悩ませる問題が空の彼方から降ってくる。
それは、ブラウスが白ではなく、水色、だということ。水色とは言っても青に近く、彩度が低い。
真っ青(あるいは白)であれば、濡れたところでそれほど気にならないかもしれないが、彩度低めの水色なんて、「わたしの汗を見てください!」と言っているようなもんじゃないか……?(実際に、汗で濡れると真っ青になってしまう。)
それで、‘‘制服の可愛さ’’に惹かれてあの高校に入学した大半の女子は、夏が来るたびに後悔する。
もう1着ブラウスを持ってきて登校したらお手洗いで着替える、肌着だけを替える、なかにTシャツを着てくるなど対処法は人それぞれ。なかには、タオルを仕込んでくる子もいた。はあ、懐かしい。
④好きな彼と、すれ違いざまに視線を交わす
少女漫画か、と突っ込みたくなる気持ちはわかる。
でも、教科書やノートを両腕にかかえたわたしは、向かいから歩いてくる彼とすれ違う一瞬だけおたがいの瞳を見つめ合う、あの瞬間の甘美な衝撃を味わってしまったら、視線を交わさないわけにはいかないのだ。
好きな男の、プール後の濡れた黒髪や日焼けした肌、ほんのわずか上がる口角が最高じゃないわけがない。男子と群れているときの無邪気な様子からは一変した、ちょっと色っぽい瞳にドキドキしないわけがない。
⑤ポニーテールのシュシュ
なんとなく、「ポニーテールにシュシュをつけてもゆるされるのは高校生まで」のような気がしている。高校を卒業してから、ポニーテールにシュシュをつけることが恥ずかしくなった。
(勝手にわたしが思っているだけなので、読んでくださっている人は気にしないでほしい)
高校時代はセミロング~ロングをキープし、夏はよくポニーテールをしていた。
しかし、その頃の【前髪8:2分け・触角と後ろ髪はゆるめにコテで巻きポニーテール+シュシュ】の図が完成されているので、なんというか、入り込めないのだ。その完全な図は、JKだから似合っていたのだろうな、と。
ポニーテールにシュシュをつけられなくなった、というだけで、ほかの方法で結ぶときには使う。まあ、でもやっぱり、外では身につけなくなったなあ。
長くなってしまったが、とりあえず今思いつくものはこの5つ。
冒頭でも書いたとおり後悔は1mmもなく、ただただ「ああ、そんな時代は終わってしまったんだな」「あの時の気持ちを味わうことは2度とないんだな」と懐かしく思う。
「このまま一生つまらない人生を送るのだ」と本気で絶望していた元JKも、今では毎日たのしく仕事をし、「社会人って最高!」と笑いながら生きている。人生何が起こるかわからないし、学校なんてほんとうにちっぽけな世界だったのだと気がついた。
学生時代を地獄だったと言っているけれど、あの頃がなければこうして楽しく生きていないかもしれないので、オールオッケー!
それでは終わりに、このブログを読んでくださった高校生を含む全学生のみなさまが、学校や社会に対するあふれんばかりの絶望を楽しめたらいいなと思います。
平成最後の夏だから、したくてもできなかったことに思い切って踏み出してみるのもよし。今まで通りダラダラ過ごすのもよし。
どれだけ絶望しても変わらず明日は来るし、教師に「社会に出られない」なんて言われたって出られます。大学にも(勉強すれば)入れます。
その絶望にはいつか必ず終わりが来るし、人はいつか必ず死ぬ。どうか、最低で最高な人生を。
胸を過ぎった確信に近いなにか
「今日は洗濯物がよく乾くでしょう」
テレビから聞こえるお天気キャスターの声に耳を傾けながら、寝起きで働かない頭をソファーの背に預ける。
窓の外に目線をチラッと動かせば、春の嵐が過ぎ去った雲ひとつない真っ青な空。ゆるやかな風に揺れる青々とした木々。
なんて絶好の洗濯日和だろう。
いや、洗濯をする前にこのまま二度寝してしまおうか。でも、今寝てしまったらせっかくの休みが半日終わってしまう気がするし…。
そんな葛藤を心で繰り返しながら、洗濯機を回そうと重い腰を上げて洗面所へと足を運ぶと、開けっ放しの寝室のドアの隙間から、未だに深い眠りの中を泳いでいる同居人の姿が視界に入った。
そのあまりの気持ち良さそうな顔に、妬ましい気持ちがふつりと湧く。
あの布団、剥いでやりたい。
そんな憎たらしい同居人こと、彼との出会いも、こんな快晴の大学2年生の春だった。
学校生活にも慣れて、バイトや飲み会といかにもな大学生活の真っ最中。だけど、想像していたよりも単調な毎日に刺激を求めて、何気なく入ったサークルに彼はいた。
柔らかな栗色に染められた髪に、少し幼い印象を与える丸みを帯びた二重の瞳。程よく色づいてた小麦色の肌に、目尻にシワができる笑い方。
初めて会ったときは、かっこいいだとか、特別好みだとかは思わなかったのに、どこか目を惹くその存在に胸が騒ついたのをよく覚えている。
気になる存在であることは変わらかったけれど、特に関わりもない日々。そんな世界が突然動き始めたのは、新歓の飲み会だったかな。
程よくお酒も回って楽しくなって来たところに、ふとやってきた彼。
「楽しんでるー?」
と、ほんのり頬を赤くして、どきりと高鳴るわたしの鼓動なんて知らないのをいい事に、となりに座って。気持ちよかった酔いも、肩が触れそうな距離の彼の存在に一気に冷めてしまった。
「酔ってるね」
「ふわふわしてる。そっちも顔、ちょっと赤いよ」
なんとか平静を装うものの、次の瞬間、わたしの中で何かが弾けた。と同時に、何の確信もない確信が胸をよぎった。
あ、ムリ。わたし、この人と一緒になる。
赤くなった頬を緩めながら、わたしのほっぺたをつまむ彼。
ぷにぷにだ、と言いながら、それでもやめない彼の目に映るわたしの表情は、思った以上に真剣だった。
頬に触れる彼の手の感触、体温。たったそれだけでわたしの中をはしった“一緒になる”という言葉に、予感よりも確信に近い未来を感じて、惹かれる理由はこれだったのかと納得してしまった。
どこからこんな自信が湧くんだろうと、自分に苦笑いが溢れる。まだ、頬の感触を楽しむ彼はわたしがこんなことを考えているなんて思わないだろうな。
近いうちに訪れるであろう変化に胸を弾ませながら、わたしも彼の頬に手を伸ばす。
「わたしよりもぷにぷにじゃん」
自分から初めて触れる彼の頬は思ったよりも伸びることが面白い。そんな彼の顔を見てみれば、さっきのわたしと同じような表情をしていて、息を飲む。
彼の中にも何か、よぎったのかもしれない。
そんな彼との出会いを振り返りながら、洗濯機を回し終えた足で寝室に向かう。襲ってくる眠気の波にあらがうのをやめたわたしは、彼の横に潜り込んだ。
それで目が覚めた彼は、眠そうな目をしてわたしの身体に腕を回しながら、「なんでニヤニヤしてるの」とほのかに笑う。
あの時の確信が今こうして現実になっていることに、やっぱり間違っていなかったなとさらに笑みが溢れる。
彼の中に何かよぎったのか、聞いたことはなかったな。今度聞いてみよう。
そんなことを考えながら、不思議そうな彼になんでもないよと声をかけて、変わらない温もりに腕を回してから、また眠りの世界に足を踏み入れた。
恋愛感情よりも先に引き寄せた確信
それは、確信に近いものだった。
‘‘あ、わたし、この人と結婚するだろうな’’
左耳からスルリとわたしのなかへ入り込んできた声と、頭上から突然降ってきたことば。そして、これまでにない速さと深さで刻まれる鼓動。
口に咥え、火を付けようとしていた煙草を落としかける。
え? 今なんて?
あまりにも突然の出来事に呼吸を忘れてしまって、慌てて体内に酸素を取り込んだ。息苦しいのは、喫煙所に充満する煙のせいではない。
その声の持ち主は、どうやら電話をしているようだった。笑っている男の声にもう1度耳を澄ます。脳の端から端まで記憶を辿ってみるが、これだけ良い声をどこかで聞いていたら、声フェチのわたしが忘れるはずがない。
結婚? どういうこと? わたしがこの人と、結婚?
最近友人たちの口から頻繁に飛び出す2文字が、身体中をぐるぐると掻き混ぜる。手が震えて力が入らず、上手くマッチを擦れない。側薬に増えていく擦った跡を見て、溜息をついた。
普段冷静なわたしが、こんなに動揺するなんて。
ただ声を聞いただけだ。
火を付けられない煙草を右手に持ったまま、処理速度が低下し続ける脳に鞭を打ち、フル回転させる。一旦整理しよう。
3日前に禁煙しようと決意したものの、同僚に「禁煙するからあげる」と昼休み直前に押し付けられた煙草の箱。あると思うと足が無意識に喫煙所へ向いてしまって、3分前、たまたま空いたこの場所で煙草に火を付けようとした。
こちらに殆ど背を向けている男の顔を見てはいないし、相手は隣に立つわたしに気が付いていないかもしれない。
そして左に立つ彼の声が聞こえるなり、突然あのことばが降ってきて……。頭に浮かんだとか、そう思ったとかではなくて、たしかに頭上から「降ってきた」のだ。
何が起こったのか未だにサッパリわからないし、サッパリということばがこれほど似合う出来事に、生まれてこの方出遭ったことがない。
一体なんなんだ……いや待てよ、ただの気のせいかもしれない。或いは夢。結婚ということばに敏感になっているせいだ、きっと。ほら、睡眠中に夢を見るのは、情報を整理しているからだし。それと同じような感じで、結婚についての有り余った情報がいくつか組み合わさって夢となって、わたしの頭上目がけて降って……なんて、都合が良すぎるか。でも、そう解釈する以外にどうしたらいいのかわからない。気のせいだ、と無視することもできるはずなのに、なのに。
ダメだダメだ。とりあえずこの話は横に置いて、気持ちを落ち着かせよう。話はそれからだ。こういう時こそ煙草が役に立つ。
マッチをもう1本取り出して側薬に擦り付けたが、手がまだ少し震えていたせいで床に落としてしまった。火が付いていなくてよかった、と安堵して拾うと、目の前に黄色のライターを差し出された。
顔を上げると、いつの間にか通話し終わっていた彼が立っている。
「さっきから何度も擦ってますよね。よかったら、これ使ってください」
ありがとうございます、と小さく礼を言って口に咥えた煙草に火を付け、彼にライターを返す。火を付ける間に注がれる彼の視線と、何度も擦っていたことを知られていた恥ずかしさで、指の先から徐々に身体が熱くなる。
返したライターで彼も煙草に火を付け、ふーっと大きく白い息を吐いた。
彼、こんな顔していたんだ。壁に寄りかかっていたから分からなかったが、身長が高い。そして何より、睫毛がものすごく長かった。
先ほどの彼と同じように壁に寄りかかり、ぼうっとそんなことを考えていると、
「手」
彼が一言そう呟いた。左を見ると、ぱちっと視線が交わる。
「震えてますけど、大丈夫ですか?」
真っすぐな瞳を見ていられなくて、下に逸らす。ああこれは、と事の経緯を説明しそうになって、口をつぐんだ。いやいや、「わたし、あなたと結婚するらしくて」なんて言えるわけがない。ええ、とだけ答えて何度か吸ったり吐いたりしているうちに、心配してくれたのに素っ気なかったなと後悔した。
昼休みもあとわずかなのか、喫煙所を埋めていた人間がひとり、またひとりと減っていく。喫煙所にいる者同士の間には結束感のようなものがあるが、それがバラバラと解かれていく瞬間。
それをジッと見つめていると、さっきまで動揺していたのが嘘みたいに、落ち着き払っている自分がいることに気づいた。
流れる沈黙と、ライターの貸し借りで少し近づいた物理的な距離に、また鼓動が速くなる。
それなりに経験を重ねてきているし、こんなことでドキドキするような年齢じゃないのに。この間聞いた友人の「しばらく恋愛はしたくない、と思った時に限って出逢っちゃうもんだよ?」を思い出して、違う、そういうのじゃない、と自分に言い聞かせた。
恋愛は勘違いから始まるのだから。
腕時計を見ると、12時45分を指していた。そろそろ会社に戻らなくては。吸い終わった煙草をスタンド灰皿に入れようとすると、あの声がまた左耳からスルリと入り込んできた。
「マッチなんて、渋いですね」
彼ではない人の口からも、散々聞いたことばだ。
この間食事に誘ってきた男も「マッチなんて珍しいね」と言ったのち、わたしに対する好意という名のプールで一人勝手に泳いでいた。女として見ている目が心の底から気持ち悪くて、美味しくいただいた和食が逆流してきそうだった。
そのことばを掛けられることが嫌なのではない。それにまつわる記憶を思い出すのが嫌なのだ。
彼をチラリと見ると、嘘がない、真面目な表情をしていて、思わず吹き出してしまう。
「そんなに真面目な顔で言われたの、はじめてです」
あははと笑うわたしを見た彼は目を伏せて、まるで何かに安心したように、ふ、と微笑んだ。頬に大きく影を作る長い睫毛と、ゆるやかに上がった口角のうつくしさに胸の奥がジンとした直後、ああ、たしかにわたしは、この人と結婚するだろう、と再び確信してしまった。
連絡先は訊いていないし、名前すら知らない。10分程度前に出会った彼と将来結婚する確信だけがあるなんて、おかしな話だ。
目の前で微笑む彼に微笑み返したのち背を向け、彼の視線を背中に感じながら喫煙所を出る。
最近感じられなかったが、久しぶりに外の空気が美味しい。雲一つない青空と、燦々と降り注ぐ太陽の光に心が躍った。
そこには、恋愛感情よりも先に、確信によって引き寄せられている自分がいた。
愛ってむずかしい。
「そしてそれくらいで、人を愛するにはちょうどなのだ。」
いつか、本で見た一文を思い出す。
気持ちには容量があって、それが少なすぎても多すぎてもいけない。特に、愛は、その分量の調節が難しい。 少なすぎる愛は不安を生んで、多すぎる愛は痛くて逃げたくなる。重ねてきた思いも年月も関係なく、愛の分量を間違えてしまえば、愛の終わりへのキッカケになってしまうのかもしれない。
愛ってなんだろう。
この疑問の模範解答は、世界中を探し回っても、きっと見つからない。愛がなにか目で見えるものであったなら、こんなに頭を抱えて悩むことはないだろうに。
ビルに囲まれた都会の一角にある公園のベンチで、昨日別れた恋人の顔を思い浮かべながら、そんなことを考える。
彼と付き合って数年、火傷をしてしまいそうな好きという気持ちよりも、愛してるという静かで温かい気持ちに心を委ねて、安心しきっていた。
そんな私とは裏腹に、彼の中でいつから愛の温度が下がったのか。そんなことを考えても無駄だとは分かっていても、そればかりが胸を過ぎる。
風に揺られて散っていく葉を目で追いながら、わたしの心に確かにまだ残っている彼への愛も散っていってしまいそうで、目を伏せた。
いつだったか、「君の愛は少し苦しくなるね」とポツリと呟いた彼。あの時の彼の表情は、モヤがかかったように思い出せない。その時にはもう、わたしの溢れすぎた愛が彼を苦しめていたのかもしれない。
過ぎたことを考えても、仕方がないのに。
昨日、別れを告げられるまで触れていた温度は、もう隣にいない。その現実に涙が零れ落ちそうになって、上を向く。
でも、どこかで別れが近いことを分かってしまう自分がいた。その予感が嘘であって欲しくて、愛おしい彼の気持ちから目を逸らして、崩れていく愛のバランスを直そうとひとりで足掻いていたわたしは大バカ者だった。
悪い予感というのは、当たって欲しくない時に限って現実になってしまうから、困ったものだな。
愛のちょうど良い、心地よい分量を保つことは難しい。目に見えない分、慎重に重ねていくけれど、それでも間違えてしまう。
間違えそうになったとき、誰かが「それくらいで、人を愛するにはちょうどなのだ」と、教えてくれればいいのに。
そんなこと、無理に決まっているのは分かりきっているけれど、別れの痛みと苦しみから逃げたくて。それでも、彼への愛の波が押し寄せて、わたしをのみ込んでいく。
愛の海に溺れて、視界がぼやける。
どんなに考えても、ちょうどよい愛の分量はどれくらいだったのか、愛とは何か、答えは出そうにない。
『愛するということ』
「そしてそれぐらいで、人を愛するにはちょうどなのだ。」
GWの足音が微かに聞こえているとはいえ、まだ4月。iPhoneの天気予報アプリによると外の気温は26℃らしく、(地球も終わりへと走り出したのか)なんて考えながらベッドの上で伸びをしたのち、ポツリと呟いた。
‘‘愛し過ぎていないなら、充分に愛していない。バカでいい、間違いばかりでいい。愛し過ぎるというのはそういうことであって、それぐらいで人を愛するにはちょうどなのだ。’’
机の上に置いてある本の背表紙を見つめながら、反芻する。
高校生の時に、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』、ミルトン・メイヤロフの『ケアの本質』という本を買った。中学3年生で看護に興味を持ち、深く知るうちに「愛とは何なのか」と疑問を抱いたのだ。
愛するとはどういうことなのだろう。
昔は、大人になれば自然とすべてを愛せるのだと思っていた。
愛というものは、いつの日か勝手に心が生成してくれて、わたしは心の中に生まれた‘‘愛’’という物質を周りに配る。周りも、わたしに愛を配ってくれる。簡単に言えば等価交換のようなものだけれど、決して見返りを求めて配るわけではなくて、結果的にそうなっているだけのこと。
生きるすべての人の心の中には平等に‘‘愛’’が生成されて、周りに配らずにはいられない。愛という物質を配ることが愛することであるならば、人は周りを愛せるし、周りからも愛される。
原材料は不明だが、死ぬまで生成できるのであれば愛する量に限界はない。何かに対して「愛せない」「嫌い」と言っている人を、まだ生成途中なのかな、愛を配る前なのかなと考えながら見つめていた。
その頃は愛とは結局何なのか、答えを見つけることはできずにいたが、世で流行っている曲の歌詞や本の中に「愛する」という言葉を見つけるたび、私も大人になるまでに愛の正体をきっと掴めるはずで、愛する誰かと愛に満ち溢れた生活を送るのだと夢見ていた。
だから、フロムの‘‘愛は技術だ’’という言葉には心底驚いた。
大抵の人は愛の問題を愛する能力の問題としてではなく、愛される問題として捉えていて、人々はどうすれば愛される人間になれるのか、が重要だと考えている。
また、愛の問題とは対象の問題であって、能力の問題ではない、という思い込みが根底にあるという。愛することは簡単だが、愛するに相応しい相手、愛されるに相応しい相手を見つけることは難しい、と。
彼の本の中で、特に好きな部分を引用する。
愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。
一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。
誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。
愛とは、世界全体に対しての関わり方を決定する態度、性格の方向性のこと。
まだ咀嚼が足りず『愛するということ』についてあれこれ書くことは出来ないが、彼の本に出会い、わたしの世界全体に対する態度は変わった。なんて書くと大げさだけれど、少しずつではあるが確実に良い方向へレベルアップしている気がする。
愛は勝手に生成され、配り配られるものだと思っていたわたしが、愛するということについてこう考え、行動できるようになった。
自分の言葉、行動が相手に与える影響について考えること。
相手がどんな状態でも今より良くなると信じ、常日頃から相手を観察すること。
相手が安らかでいられるように、あるいは自身の力で歩いていけるように最善の選択・適切な支援を重ねていくこと。
愛するとはゆるすこと、そして、与えること。
愛には兄弟愛、異性愛、母性愛など様々な種類があるが、愛するとはこういうことだとわたしは思う。愛するためには、強く優しい精神と豊富な知識、たしかな技術が必要だ。
けれどこれは、本を読み、看護について勉強するうちに「きっとこういうことなのだろう」と考えて行動しているだけで、世間の愛に対するイメージと比べるとかなり看護寄りだろう。
冒頭の「愛し過ぎていないなら、充分に愛していない。バカでいい、間違いばかりでいい。愛し過ぎるとはそういうことで、人を愛するにはちょうどいい」に、わたしは頷けない。
この考え方を否定する気は全くない。
ただ、「過ぎる」ということばにはどうも自己中心的な空気を感じてしまうし、バカでも間違い「ばかり」でもいいなんて到底思えないからだ。どうやらわたしは極端な表現が目に付くらしい。
自分の言葉や行動が相手に与える影響を考えたり、観察したり、相手の成長を信じて最適な選択・支援を重ねていくために大事なのは、適切な距離を保つこと。
近すぎても遠すぎても相手の状況判断を見誤る可能性が高くなり、最適な選択・支援の妨げになってしまう。
愛し過ぎるあまりバカなことをしてしまったり、間違いを犯してしまう。それがイコール充分に愛している証拠となるとは、わたしは思わない。人を愛するにはちょうどいい、とも。
自分が相手に与える影響を考えに考え抜き、最善の選択と支援をしてもなお、それが結果間違っていたのであれば仕方ない。
けれど、仮に「愛し過ぎるあまり犯した間違いが充分に愛している証拠だ」なんて言われたら、わたしは気を失ってしまうだろう。「愛という言葉を、そんな風に扱うな」と泣くかもしれない。
わたしはまだまだ未熟。先ほど「愛することはゆるすこと」なんて書いておきながら、随分排他的だ。
フロムによれば、習練を積み重ねていけば愛する技術を手に入れられる。
愛する技術を身につけて、相手を通してすべての人を、世界を、私自身を愛せるようになりたい。