『愛するということ』
「そしてそれぐらいで、人を愛するにはちょうどなのだ。」
GWの足音が微かに聞こえているとはいえ、まだ4月。iPhoneの天気予報アプリによると外の気温は26℃らしく、(地球も終わりへと走り出したのか)なんて考えながらベッドの上で伸びをしたのち、ポツリと呟いた。
‘‘愛し過ぎていないなら、充分に愛していない。バカでいい、間違いばかりでいい。愛し過ぎるというのはそういうことであって、それぐらいで人を愛するにはちょうどなのだ。’’
机の上に置いてある本の背表紙を見つめながら、反芻する。
高校生の時に、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』、ミルトン・メイヤロフの『ケアの本質』という本を買った。中学3年生で看護に興味を持ち、深く知るうちに「愛とは何なのか」と疑問を抱いたのだ。
愛するとはどういうことなのだろう。
昔は、大人になれば自然とすべてを愛せるのだと思っていた。
愛というものは、いつの日か勝手に心が生成してくれて、わたしは心の中に生まれた‘‘愛’’という物質を周りに配る。周りも、わたしに愛を配ってくれる。簡単に言えば等価交換のようなものだけれど、決して見返りを求めて配るわけではなくて、結果的にそうなっているだけのこと。
生きるすべての人の心の中には平等に‘‘愛’’が生成されて、周りに配らずにはいられない。愛という物質を配ることが愛することであるならば、人は周りを愛せるし、周りからも愛される。
原材料は不明だが、死ぬまで生成できるのであれば愛する量に限界はない。何かに対して「愛せない」「嫌い」と言っている人を、まだ生成途中なのかな、愛を配る前なのかなと考えながら見つめていた。
その頃は愛とは結局何なのか、答えを見つけることはできずにいたが、世で流行っている曲の歌詞や本の中に「愛する」という言葉を見つけるたび、私も大人になるまでに愛の正体をきっと掴めるはずで、愛する誰かと愛に満ち溢れた生活を送るのだと夢見ていた。
だから、フロムの‘‘愛は技術だ’’という言葉には心底驚いた。
大抵の人は愛の問題を愛する能力の問題としてではなく、愛される問題として捉えていて、人々はどうすれば愛される人間になれるのか、が重要だと考えている。
また、愛の問題とは対象の問題であって、能力の問題ではない、という思い込みが根底にあるという。愛することは簡単だが、愛するに相応しい相手、愛されるに相応しい相手を見つけることは難しい、と。
彼の本の中で、特に好きな部分を引用する。
愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。
一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。
誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。
愛とは、世界全体に対しての関わり方を決定する態度、性格の方向性のこと。
まだ咀嚼が足りず『愛するということ』についてあれこれ書くことは出来ないが、彼の本に出会い、わたしの世界全体に対する態度は変わった。なんて書くと大げさだけれど、少しずつではあるが確実に良い方向へレベルアップしている気がする。
愛は勝手に生成され、配り配られるものだと思っていたわたしが、愛するということについてこう考え、行動できるようになった。
自分の言葉、行動が相手に与える影響について考えること。
相手がどんな状態でも今より良くなると信じ、常日頃から相手を観察すること。
相手が安らかでいられるように、あるいは自身の力で歩いていけるように最善の選択・適切な支援を重ねていくこと。
愛するとはゆるすこと、そして、与えること。
愛には兄弟愛、異性愛、母性愛など様々な種類があるが、愛するとはこういうことだとわたしは思う。愛するためには、強く優しい精神と豊富な知識、たしかな技術が必要だ。
けれどこれは、本を読み、看護について勉強するうちに「きっとこういうことなのだろう」と考えて行動しているだけで、世間の愛に対するイメージと比べるとかなり看護寄りだろう。
冒頭の「愛し過ぎていないなら、充分に愛していない。バカでいい、間違いばかりでいい。愛し過ぎるとはそういうことで、人を愛するにはちょうどいい」に、わたしは頷けない。
この考え方を否定する気は全くない。
ただ、「過ぎる」ということばにはどうも自己中心的な空気を感じてしまうし、バカでも間違い「ばかり」でもいいなんて到底思えないからだ。どうやらわたしは極端な表現が目に付くらしい。
自分の言葉や行動が相手に与える影響を考えたり、観察したり、相手の成長を信じて最適な選択・支援を重ねていくために大事なのは、適切な距離を保つこと。
近すぎても遠すぎても相手の状況判断を見誤る可能性が高くなり、最適な選択・支援の妨げになってしまう。
愛し過ぎるあまりバカなことをしてしまったり、間違いを犯してしまう。それがイコール充分に愛している証拠となるとは、わたしは思わない。人を愛するにはちょうどいい、とも。
自分が相手に与える影響を考えに考え抜き、最善の選択と支援をしてもなお、それが結果間違っていたのであれば仕方ない。
けれど、仮に「愛し過ぎるあまり犯した間違いが充分に愛している証拠だ」なんて言われたら、わたしは気を失ってしまうだろう。「愛という言葉を、そんな風に扱うな」と泣くかもしれない。
わたしはまだまだ未熟。先ほど「愛することはゆるすこと」なんて書いておきながら、随分排他的だ。
フロムによれば、習練を積み重ねていけば愛する技術を手に入れられる。
愛する技術を身につけて、相手を通してすべての人を、世界を、私自身を愛せるようになりたい。