人間交差点

あったことやなかったこと、ありもしないことやあってほしいこと。

愛ってむずかしい。

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「そしてそれくらいで、人を愛するにはちょうどなのだ。」

 

いつか、本で見た一文を思い出す。

 

気持ちには容量があって、それが少なすぎても多すぎてもいけない。特に、愛は、その分量の調節が難しい。 少なすぎる愛は不安を生んで、多すぎる愛は痛くて逃げたくなる。重ねてきた思いも年月も関係なく、愛の分量を間違えてしまえば、愛の終わりへのキッカケになってしまうのかもしれない。

  

 

 愛ってなんだろう。

この疑問の模範解答は、世界中を探し回っても、きっと見つからない。愛がなにか目で見えるものであったなら、こんなに頭を抱えて悩むことはないだろうに。

 

 

ビルに囲まれた都会の一角にある公園のベンチで、昨日別れた恋人の顔を思い浮かべながら、そんなことを考える。 

 

彼と付き合って数年、火傷をしてしまいそうな好きという気持ちよりも、愛してるという静かで温かい気持ちに心を委ねて、安心しきっていた。

 

そんな私とは裏腹に、彼の中でいつから愛の温度が下がったのか。そんなことを考えても無駄だとは分かっていても、そればかりが胸を過ぎる。

 

風に揺られて散っていく葉を目で追いながら、わたしの心に確かにまだ残っている彼への愛も散っていってしまいそうで、目を伏せた。

 

 

 

いつだったか、「君の愛は少し苦しくなるね」とポツリと呟いた彼。あの時の彼の表情は、モヤがかかったように思い出せない。その時にはもう、わたしの溢れすぎた愛が彼を苦しめていたのかもしれない。

 

過ぎたことを考えても、仕方がないのに。

 

昨日、別れを告げられるまで触れていた温度は、もう隣にいない。その現実に涙が零れ落ちそうになって、上を向く。

 

でも、どこかで別れが近いことを分かってしまう自分がいた。その予感が嘘であって欲しくて、愛おしい彼の気持ちから目を逸らして、崩れていく愛のバランスを直そうとひとりで足掻いていたわたしは大バカ者だった。

 

 

悪い予感というのは、当たって欲しくない時に限って現実になってしまうから、困ったものだな。

 

 

 

愛のちょうど良い、心地よい分量を保つことは難しい。目に見えない分、慎重に重ねていくけれど、それでも間違えてしまう。

 

 

間違えそうになったとき、誰かが「それくらいで、人を愛するにはちょうどなのだ」と、教えてくれればいいのに。

 

 

そんなこと、無理に決まっているのは分かりきっているけれど、別れの痛みと苦しみから逃げたくて。それでも、彼への愛の波が押し寄せて、わたしをのみ込んでいく。

 

 

 

愛の海に溺れて、視界がぼやける。

どんなに考えても、ちょうどよい愛の分量はどれくらいだったのか、愛とは何か、答えは出そうにない。