恋愛感情よりも先に引き寄せた確信
それは、確信に近いものだった。
‘‘あ、わたし、この人と結婚するだろうな’’
左耳からスルリとわたしのなかへ入り込んできた声と、頭上から突然降ってきたことば。そして、これまでにない速さと深さで刻まれる鼓動。
口に咥え、火を付けようとしていた煙草を落としかける。
え? 今なんて?
あまりにも突然の出来事に呼吸を忘れてしまって、慌てて体内に酸素を取り込んだ。息苦しいのは、喫煙所に充満する煙のせいではない。
その声の持ち主は、どうやら電話をしているようだった。笑っている男の声にもう1度耳を澄ます。脳の端から端まで記憶を辿ってみるが、これだけ良い声をどこかで聞いていたら、声フェチのわたしが忘れるはずがない。
結婚? どういうこと? わたしがこの人と、結婚?
最近友人たちの口から頻繁に飛び出す2文字が、身体中をぐるぐると掻き混ぜる。手が震えて力が入らず、上手くマッチを擦れない。側薬に増えていく擦った跡を見て、溜息をついた。
普段冷静なわたしが、こんなに動揺するなんて。
ただ声を聞いただけだ。
火を付けられない煙草を右手に持ったまま、処理速度が低下し続ける脳に鞭を打ち、フル回転させる。一旦整理しよう。
3日前に禁煙しようと決意したものの、同僚に「禁煙するからあげる」と昼休み直前に押し付けられた煙草の箱。あると思うと足が無意識に喫煙所へ向いてしまって、3分前、たまたま空いたこの場所で煙草に火を付けようとした。
こちらに殆ど背を向けている男の顔を見てはいないし、相手は隣に立つわたしに気が付いていないかもしれない。
そして左に立つ彼の声が聞こえるなり、突然あのことばが降ってきて……。頭に浮かんだとか、そう思ったとかではなくて、たしかに頭上から「降ってきた」のだ。
何が起こったのか未だにサッパリわからないし、サッパリということばがこれほど似合う出来事に、生まれてこの方出遭ったことがない。
一体なんなんだ……いや待てよ、ただの気のせいかもしれない。或いは夢。結婚ということばに敏感になっているせいだ、きっと。ほら、睡眠中に夢を見るのは、情報を整理しているからだし。それと同じような感じで、結婚についての有り余った情報がいくつか組み合わさって夢となって、わたしの頭上目がけて降って……なんて、都合が良すぎるか。でも、そう解釈する以外にどうしたらいいのかわからない。気のせいだ、と無視することもできるはずなのに、なのに。
ダメだダメだ。とりあえずこの話は横に置いて、気持ちを落ち着かせよう。話はそれからだ。こういう時こそ煙草が役に立つ。
マッチをもう1本取り出して側薬に擦り付けたが、手がまだ少し震えていたせいで床に落としてしまった。火が付いていなくてよかった、と安堵して拾うと、目の前に黄色のライターを差し出された。
顔を上げると、いつの間にか通話し終わっていた彼が立っている。
「さっきから何度も擦ってますよね。よかったら、これ使ってください」
ありがとうございます、と小さく礼を言って口に咥えた煙草に火を付け、彼にライターを返す。火を付ける間に注がれる彼の視線と、何度も擦っていたことを知られていた恥ずかしさで、指の先から徐々に身体が熱くなる。
返したライターで彼も煙草に火を付け、ふーっと大きく白い息を吐いた。
彼、こんな顔していたんだ。壁に寄りかかっていたから分からなかったが、身長が高い。そして何より、睫毛がものすごく長かった。
先ほどの彼と同じように壁に寄りかかり、ぼうっとそんなことを考えていると、
「手」
彼が一言そう呟いた。左を見ると、ぱちっと視線が交わる。
「震えてますけど、大丈夫ですか?」
真っすぐな瞳を見ていられなくて、下に逸らす。ああこれは、と事の経緯を説明しそうになって、口をつぐんだ。いやいや、「わたし、あなたと結婚するらしくて」なんて言えるわけがない。ええ、とだけ答えて何度か吸ったり吐いたりしているうちに、心配してくれたのに素っ気なかったなと後悔した。
昼休みもあとわずかなのか、喫煙所を埋めていた人間がひとり、またひとりと減っていく。喫煙所にいる者同士の間には結束感のようなものがあるが、それがバラバラと解かれていく瞬間。
それをジッと見つめていると、さっきまで動揺していたのが嘘みたいに、落ち着き払っている自分がいることに気づいた。
流れる沈黙と、ライターの貸し借りで少し近づいた物理的な距離に、また鼓動が速くなる。
それなりに経験を重ねてきているし、こんなことでドキドキするような年齢じゃないのに。この間聞いた友人の「しばらく恋愛はしたくない、と思った時に限って出逢っちゃうもんだよ?」を思い出して、違う、そういうのじゃない、と自分に言い聞かせた。
恋愛は勘違いから始まるのだから。
腕時計を見ると、12時45分を指していた。そろそろ会社に戻らなくては。吸い終わった煙草をスタンド灰皿に入れようとすると、あの声がまた左耳からスルリと入り込んできた。
「マッチなんて、渋いですね」
彼ではない人の口からも、散々聞いたことばだ。
この間食事に誘ってきた男も「マッチなんて珍しいね」と言ったのち、わたしに対する好意という名のプールで一人勝手に泳いでいた。女として見ている目が心の底から気持ち悪くて、美味しくいただいた和食が逆流してきそうだった。
そのことばを掛けられることが嫌なのではない。それにまつわる記憶を思い出すのが嫌なのだ。
彼をチラリと見ると、嘘がない、真面目な表情をしていて、思わず吹き出してしまう。
「そんなに真面目な顔で言われたの、はじめてです」
あははと笑うわたしを見た彼は目を伏せて、まるで何かに安心したように、ふ、と微笑んだ。頬に大きく影を作る長い睫毛と、ゆるやかに上がった口角のうつくしさに胸の奥がジンとした直後、ああ、たしかにわたしは、この人と結婚するだろう、と再び確信してしまった。
連絡先は訊いていないし、名前すら知らない。10分程度前に出会った彼と将来結婚する確信だけがあるなんて、おかしな話だ。
目の前で微笑む彼に微笑み返したのち背を向け、彼の視線を背中に感じながら喫煙所を出る。
最近感じられなかったが、久しぶりに外の空気が美味しい。雲一つない青空と、燦々と降り注ぐ太陽の光に心が躍った。
そこには、恋愛感情よりも先に、確信によって引き寄せられている自分がいた。